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「ギャレゴジ」のストーリーを理解してる人が少なくて悲しい

 「シン・ゴジラ」が大ヒットしているようで嬉しい限りです。しかしシンゴジラを褒めたいがあまりに、ギャレス・エドワーズ監督の「GODZILLA」(ゴジラ2014)をこき下ろす人がいる事は実に悲しい限りです。

 

 『ギャレゴジでは余計な恋愛や主人公のシーンが退屈だったが、シンゴジラではそういった人間ドラマが省かれていてよかった』

 

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 例えばこんな感じです。

 

 非常に悲しいですね。どんな人にも自分の尺度で作品を評する権利があるとはいえ、ここまで映画を理解せずに切り捨てられると、悲しいとしか言いようが無いです。

 

 ですので、「ギャレゴジ」の最も重要なストーリーの骨格を、はっきり簡単にここに書き表しておきます。読んで頂けたら嬉しいです。

 

 

 「ギャレゴジ」を一言で表わす言葉、それは「子供を殺す闘い」です

 

 怪獣であるMUTOが、自らの子供のために闊歩する姿。そのMUTOによって死に瀕する子供たちを、なんとか助けようとする人間たち。この対比が、映画では繰り返し繰り返し描かれます。そしてこの闘いは、最後に主人公がMUTOの子供を皆殺しにすることによって決着するのです。

 

 この残酷無比なテーマをゴジラで描く意味は、もちろん、それがゴジラにとって大切な「核兵器」と深いつながりがあるからです。「核兵器」が恐ろしいのは、それがもっぱら普通の町に住む子どもと、子供を育む女性を殺すための兵器だからです。

 

 核兵器に象徴されるような、生き残りをかけた戦いの本当の残虐性と、それでも自分の子供を守るためにその残虐さを発揮しなければならない人間の「怪獣」性、それがギャレゴジがゴジラ映画として持っている「恐ろしさ」なのです。

 

 

なぜ「ギャレゴジ」がこんなにも理解されないのか

 

 きっと、ゴジラファンに映画を見る目がないとか、そういう事ではないと思います。自分もゴジラファンですし。おそらくそれよりも、もっと大きい理由が一つある。それは、日本人は核兵器を変な意味で絶対視しすぎている、ということです。

 

 核兵器はもちろん国際的にも特別な位置を占める兵器ですが、それでも日本人の核兵器に対する、特に放射線障害に対する絶対視、(誤解を恐れずに言えば)神聖視は、少し行き過ぎていると思います。だから、核兵器の戦略兵器・大量破壊兵器としての問題になかなか目が行かないのではないでしょうか。また、細菌・化学兵器核兵器と同列やそれ以上の脅威として語られないのも、その絶対視のせいだと考えています。

 

 

 ついでの話ですが、核兵器には戦術核というのもありますね。戦術核は、「1984ゴジラ」にテーマのひとつとして出てきます。「1984ゴジラ」はアイデアがとても面白い社会派ゴジラなので、ぜひ見て欲しいですね。色んなテーマの影響で、肝心のゴジラがなんか弱くなっちゃってるのが、たまにキズな所ではあるんですが(笑