「ギャレゴジ」のストーリーを理解してる人が少なくて悲しい
「シン・ゴジラ」が大ヒットしているようで嬉しい限りです。しかしシンゴジラを褒めたいがあまりに、ギャレス・エドワーズ監督の「GODZILLA」(ゴジラ2014)をこき下ろす人がいる事は実に悲しい限りです。
『ギャレゴジでは余計な恋愛や主人公のシーンが退屈だったが、シンゴジラではそういった人間ドラマが省かれていてよかった』
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例えばこんな感じです。
非常に悲しいですね。どんな人にも自分の尺度で作品を評する権利があるとはいえ、ここまで映画を理解せずに切り捨てられると、悲しいとしか言いようが無いです。
ですので、「ギャレゴジ」の最も重要なストーリーの骨格を、はっきり簡単にここに書き表しておきます。読んで頂けたら嬉しいです。
「ギャレゴジ」を一言で表わす言葉、それは「子供を殺す闘い」です
怪獣であるMUTOが、自らの子供のために闊歩する姿。そのMUTOによって死に瀕する子供たちを、なんとか助けようとする人間たち。この対比が、映画では繰り返し繰り返し描かれます。そしてこの闘いは、最後に主人公がMUTOの子供を皆殺しにすることによって決着するのです。
この残酷無比なテーマをゴジラで描く意味は、もちろん、それがゴジラにとって大切な「核兵器」と深いつながりがあるからです。「核兵器」が恐ろしいのは、それがもっぱら普通の町に住む子どもと、子供を育む女性を殺すための兵器だからです。
核兵器に象徴されるような、生き残りをかけた戦いの本当の残虐性と、それでも自分の子供を守るためにその残虐さを発揮しなければならない人間の「怪獣」性、それがギャレゴジがゴジラ映画として持っている「恐ろしさ」なのです。
なぜ「ギャレゴジ」がこんなにも理解されないのか
きっと、ゴジラファンに映画を見る目がないとか、そういう事ではないと思います。自分もゴジラファンですし。おそらくそれよりも、もっと大きい理由が一つある。それは、日本人は核兵器を変な意味で絶対視しすぎている、ということです。
核兵器はもちろん国際的にも特別な位置を占める兵器ですが、それでも日本人の核兵器に対する、特に放射線障害に対する絶対視、(誤解を恐れずに言えば)神聖視は、少し行き過ぎていると思います。だから、核兵器の戦略兵器・大量破壊兵器としての問題になかなか目が行かないのではないでしょうか。また、細菌・化学兵器が核兵器と同列やそれ以上の脅威として語られないのも、その絶対視のせいだと考えています。
ついでの話ですが、核兵器には戦術核というのもありますね。戦術核は、「1984ゴジラ」にテーマのひとつとして出てきます。「1984ゴジラ」はアイデアがとても面白い社会派ゴジラなので、ぜひ見て欲しいですね。色んなテーマの影響で、肝心のゴジラがなんか弱くなっちゃってるのが、たまにキズな所ではあるんですが(笑
無機質な神「シン・ゴジラ」 - 初見感想
初日初回に見に行った、「シン・ゴジラ」のファーストインプレッションです。
感想は、何回も見れば変わるかもしれないので、あくまで現時点ということで。
好きな作品なので批判はなるべくしないようにしますが、絶賛でもないです。
「シンゴジサイコー!」状態を維持したい人は多分見ないほうがいいかも。
ネタバレ全開です
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感想ここから。
1.今回のゴジラはどういう存在なのか
ゴジラ映画において、各作品のゴジラがどういう存在なのか、何を象徴しているかということは、映画を理解するうえでまず抑えなければいけないポイントです。
今回のゴジラの特徴を書き出しましょう。
・核技術によって妻の命を奪われた科学者・牧博士が研究し、東京に解き放った存在。
・人間を遥かに超えるDNAの長さを持つ、地球で最も進化した生命体。
・核分裂反応を超える、超エネルギーを生み出す細胞を持つ。
・あらゆる物質を燃料にでき、水や空気があれば活動できる。
・個体進化する。進化を続ければ飛行能力を得る恐れすらある。
・分裂して増えていく。
・通常は歩いた場所を潰していくだけだが、攻撃に対しては徹底的な反撃をする。
・自身が発している放射線は多少のレベル。炎で焼きつくした場所は高線量になる。
・大量に分裂し、飛行し、焼きつくされれば世界は終わり
いやぁ、こう書いてみると、とてつもない強さですね。
まず今回のゴジラですが、これまでのゴジラとは違って、「核」や「戦争」との繋がりはかなり薄い存在だということが言えます。ゴジラは「核を超える超エネルギー」で動いている「究極生命体」であり、これを新技術として利用しようとした米国と、新技術による兵器や事故を危惧した牧教授の決裂が、今回の映画の発端のようです。
いままでと違い、ゴジラが「超エネルギー」で動いている存在とされたのは何故なのか。それは、ゴジラを単なる「核」の象徴としてではなく、「核を含めたテクノロジー全般」の象徴としたかったからだと思います。ゴジラを核を超える新たなエネルギーとして描くことで、核のみを象徴していた今までのゴジラの枠を破りつつ、テクノロジー全般を象徴する存在へと変えているのです。
つぎに、ゴジラの行動について。今回のゴジラは、感情や意思をはっきり感じる部分があまりありません。歩いて街に居座り、攻撃されたら反撃する、でほぼ全てです。その反撃の仕方も、ビームでの飛行物の自動迎撃など、機械的な印象を受けます。劇中の登場人物も、途中からゴジラの意思を読む事に意味は無いと考えていました。
ゴジラに意思が無いとすれば、なんなのか。ただそこに在り、害意には害意を返す、人間にとっての鏡のような存在。それは「神」です。しかも、子供を産んだり戦争したりする神話の神さまじゃありません。ただ神に対してどう行動したかを判定し、仇なすものには天罰を与える、無機質な「審判者・裁定者としての神」、それが今回のゴジラだと言えます。だから、どんな兵器でも破壊できない。ゴジラ自身の力(冷却能力)によって、鎮まってもらうしかなかったわけです。
・「核を含めたテクノロジー全般」の象徴であり
・「審判者・裁定者としての神」である。
さらに、分裂を繰り返し空を覆い、放射能とビームで大地を焼きつくす。「ゴジラ」としてはとても新しいと思います。
…思います、が、私たちはこういうキャラクターをすでによく知っています。
そうです。ご存知「巨神兵」です。
巨神兵は、「風の谷のナウシカ」に登場する巨大な人工神です。劇中では、テクノロジーの極みに達した旧人類が、人類を平定する審判者として創造したと考えられています。伝説では世界を滅ぼしたと言われていますが、真相は歴史の闇の中で、よくわかりません。
正直に言って、今回のゴジラは巨神兵そのものだと言っていいと思います。第五形態が巨神兵の姿だったのかもしれないし、核攻撃によって分裂し、巨神兵として世界に散らばる未来が待っていたのかもしれません。最後のカットで尻尾の先に見えている人型の影が、巨神兵の小さいのに見えてしかたがなかった私の気持ちが、分かって頂けたでしょうか。
もっとあけすけに言ってしまいましょう。
牧博士=宮崎駿であり、「原発なんかに頼ってる大人どもはもう知らない!文明滅びよ!」という怪獣・宮崎ゴジラの、長年の「文明を捨てて自然に帰れ!大人は子供の純真さに戻れ!」という主張に対する、庵野監督世代からの回答、それが「シン・ゴジラ」なのです!(笑
まぁそう言い切ってしまうのはさすがに冗談なのですが、そういう部分が全く無いとは言えないと思います。付け加えると、「ヤシオリ」作戦の名前もこの解釈を強化してくれると考えています。ヤマタノオロチは荒ぶる神であり、説によれば、「製鉄」という「武器にも福音にもなる」新技術を持った部族を伝説化したものとも言われていますよね。
2.特撮・人間ドラマ
ここからちょっと愚痴多くなります。
特撮に関してはちょっとがっかりしました。もちろん、今までの日本のゴジラ映画と比べたら、天と地ほどの向上があったことは間違いないです。それは自分も認めます。
ですが、この映像を絶賛する人の意見を見るたびに、邦画、ゴジラ映画と庵野・樋口映画に対する期待度がそんなに低くなっていたのかと愕然とするのが正直な気持ちです。爆発、炎の合成はひと目で合成っぽさが目につく。ゴジラの第二形態のウルトラ怪獣のようなマヌケ面や、第四形態のゴムっぽい質感は狙いでしょうから我慢します。ただ、実景との合成は全てゴジラが黒すぎて浮いています。巨大なものと人間大のものとの合成は、「進撃の巨人」では色をキッチリ合わせて、空気遠近法を入れてかなりうまく見せていたのに、どうして「シン・ゴジラ」ではこうなってしまったのか、残念です。
ただ、ビルや何かが壊れる部分は非常にダイナミックかつ説得力があり自然でした。
巨大感のあるビルが崩れて、巨大感の無いゴジラに降るという非常に不思議な映像感覚でありました…。
人間パート。官僚の仕事を、ここまでディティール深く描いた映画やドラマは、特撮以外の邦画を含めても稀有で、すごくユニークな作品になってると思います。311の後、政府や官僚、自衛隊の仕事・活動を固唾を呑んで見守った自分たちだからこそ、あの描写にリアリティーを感じるし、まさに今やるべき描写だったと感嘆します。
前半はユーモアも交えて、後半は格好良さ優先でというのもエンターテイメントになっていたと思います。
ただ、自分がこの映画で一番心を掴まれたのは、主人公たちのどのシーンでもありませんでした。私が感動したカット、それは名もない消防士が、人を避難させようと声をかける場面です。311の時に私達が感動したのは、こういう名もないヒーローが日本に沢山いたことじゃないでしょうか。それが「日本の希望」だと思いませんでしたか。こういう描写をもっと入れて欲しかったですね。官僚側だけではなく、もっと地面の近くからの視点もあったほうが、胸にせまるものがあったと思います。
3.エトセトラ
長くなったので、あとは気がついた所を箇条書きで。
・第二形態が起こす川津波は、津波への恐怖を思い起こさせる狙いかもしれないけど、
やっぱりあれだけじゃ不十分。でもテレビ放映を考えたら限界なのかなぁ…。
・ヤシオリ作戦のクレーンでの注入は、明らかに福島原発への冷却水注入作戦に
着想を得てると思うんだけど、なんであまり指摘してる人を見ないんだろう…。
・映画を通して一番「ドラマ」を感じたのは、第二形態に射撃をするかどうか、首相が
決断するシーンでした。あの時射撃してたらゴジラや東京がどうなってのたか…
考えてみるだけでも面白いですよね。
・ゴジラのビームをみんな放射火炎とか放射熱戦とか呼んでるけど、もうあれは
「プロトンビーム」って呼ぶことにしようよ。
・ゴジラが巨神兵やエヴァ的な庵野ワールドに組み込まれてる事は、人によって
嬉しいという意見とやめろっていう意見と両方ありますよね。
私は…けっこう萎えるほうです。
・今回のゴジラに近いゴジラ映画は、「84ゴジラ」だと思います。
初代とは明らかに違う。初代は最後にゴジラを可哀想と感じてしまう悲劇の映画
ですが、「シン・ゴジラ」でゴジラ可哀想と思う人はあんまりいない。
それが2つの映画 の根本的な違いを最も良く表していると思います。
今回はここまで。
初代ゴジラ(1954)を、今一度見直す
シン・ゴジラの公開が迫ってきました。
シン・ゴジラの批評において、必ず引き合いに出されるであろう、初代「ゴジラ」について、改めて見直しました。私が初めて見たのは10年以上前。自分でもかなり誤解していた部分があったので、簡単にまとめておきます。
ゴジラは水爆や戦争の化身…ではない。
ゴジラが水爆や戦争の結果生まれた神罰のような存在である。。というのは、解釈としてそう考えるのは自由ですが、「設定」としてはだいぶ違います。
これは劇中の山根博士の説ですが、ゴジラはジュラ紀に生息していた生物であり、水爆実験の影響ではるか海底の住処を追われ、日本に現れたという事になっています。つまりゴジラは、言ってみればただのデカい生物であり、神でもなければ、放射能によるミュータントでもなければ、戦争の怨念の産物でもありません。
また、水爆実験で住処を奪われたと言っても、爆発そのもので被害を被ったわけではないという事も気をつけなければいけません。山根博士はストロンチウム90の存在を指摘していますが、核爆発によって生まれた放射性物質が海底の環境を破壊した、と考えるべきでしょう。つまりゴジラで問題にしているのはぼんやりした「反核」ではなく、核実験または核爆発による自然破壊なのです。
そして、人間の環境破壊によって住処を追われた難民とも言うべきゴジラが、人間の手で止めを刺されてしまう。。というのがこの映画の悲劇な所です。
ちなみに、放射能の影響を受けない生命力を持つゴジラが、放射能の影響で住処を追われる、というのはちょっとおかしな話にも思えます。おそらく、エサである魚などが死に絶えたため、浅瀬に出るしかなかったのでしょう。大戸島の伝説では、昔からゴジラは、魚がいなくなるとたびたび陸に上がって人を食べてたそうなので、もともとそういう生き物だったんでしょうね。
初代ゴジラは戦争映画である。
以降の多くのゴジラ映画と違い、初代ゴジラは戦争映画だと思います。
それは、ゴジラを海底人の帝国などに置き換えてみれば明らかです。
水爆の環境破壊によって住処を破壊された海底帝国が、人間の船を襲い、街を襲う。人間は海底人の攻撃に憤り、恐怖し、ついには水爆以上の恐ろしい兵器で海底人を滅ぼしてしまう。そう考えると、ストーリーが急にわかりやすくなります。
ゴジラの被害は、台風や地震の被害と重ねあわせて描かれ、魚雷で沈められる船舶や、爆撃で火の海と化す市街など、戦争の被害のイメージとも繋がっていきます。
ただし、こうした現実の被害とのイメージの重ね合わせは、第一に、現実のイメージを借用することによって、映画の説得力を高める効果を狙ったものだという事を忘れてはいけません。だから、こういう演出を簡単に映画のテーマに結びつける今のゴジラ解釈の本流には少し危うい所を感じます。
ただ、「また疎開か、やだなぁ」みたいなセリフからもゴジラの襲来が戦火の再来として描かれているのはおそらく明らかでしょう。
映画全体を通して、初代「ゴジラ」が戦争映画として戦争のどういう側面を描いているかはこう推察できます。
戦争が、天災と同じぐらい人間の手に負えないものになってしまったことへの絶望感。その災厄から身を守るために、さらなる恐ろしい兵器に頼らざるを得ない絶望感。人は命が大切だからこそ、悪魔となって力を行使せざるを得ないという絶望感。
芹澤博士にオキシジェン・デストロイヤーの使用と自決を決断させたのは、小さな子どもたちの、清らかな鎮魂歌だったことは忘れてはいけません。
私は、「反戦」「反核」のような浅薄な解釈をつけて、映画をわかったような気になっている人間とは友達になれません。ですが、この「ゴジラ」に関しては、当時の人の戦争に対する思いを、とてもよく汲み取れる映画になっていると思います。
特撮としての初代ゴジラのすごさ
怪獣映画としてのアイデアのすごさは、今回改めて驚いたところです。
- 平成ガメラのような、被害地や病院を克明に描く悲劇描写
- 2014GODZZILAのような、天災と重ねあわせたディザスター描写
- 同じくギャレゴジの、怪獣の去った後を見せて強大さを描く描写
- 逃げ惑う人間と怪獣を1カットに合成した、お約束の構図
- テレビ塔上のマスコミ等、視点の変更を活用した臨場感
- 海岸線に張り巡らせた鉄塔群のような、大仕掛け
これら後の怪獣映画に出てくるアイデアが、ほとんど既に網羅されている。
これは本当に驚きです。
後の怪獣映画が、どれほど初代「ゴジラ」をなぞっているのか。初代「ゴジラ」が偉大な映画であるという事が大変よくわかります。
シン・ゴジラがどういう映画になるかは、今のところまったくわかりませんね。
「現実対虚構 日本対ゴジラ」というキャッチコピーから見れば、'84ゴジラのような「現実の日本にゴジラが現れたら」みたいなコンセプトなのかもしれません。でもまぁ、映画のキャッチコピーは本編と関係ない事も多いので…。
予告編のゴジラのカットは、相変わらず普通の風景のド真ん中にポーンとゴジラ合成してみましたーみたいな構図ばっかりでちょっと、ね。期待する部分を見出だせずにいます。そりゃ見に行くに決まってるんですけどね。
バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生 感想
この記事はネタバレです。配慮はありません。
立川シネマシティの爆音で鑑賞しました。
総評としては「面白いとは言いがたいけど、筋の通ってない映画ではない」です。
次作ジャスティスリーグへのブリッジ(橋渡し)に留まってしまった感もあります。
ある意味、新劇場版エヴァ:Qと似た部分があると思います。
次作へのブリッジの部分が強く、ひとつの話として評価できない。
ちなみに自分は、エヴァQの評価は保留という立場です。
今回の映画の筋書きですが、単純です。
バットマンとスーパーマンが、それぞれのヒーローとしての動機を逆手に取られ
悪役の思惑のまま対決するが、あるきっかけで分かり合い共闘する。
以上です。
非常にシンプルですが、こんなシンプルな話を明快に描けないなんて…ザック監督ちょっとやばくない?と思わなくもない所です。
細かく見ましょう。
スーパーマンは、自分を受け入れ愛してくれる人のために自分の力を使う事を前作で学びました。愛する人は彼の最大の支えであり、弱点でもあります。今回はそこを利用されてしましました。彼の超人的な力はその存在だけで世界を揺るがしていて、国にも人にも変革を迫っています。この辺の話は「ウォッチメン」のDr.マンハッタンにも通じる感じです。
バットマンは今回オリジンが描かれ、暴漢に目の前で両親を殺された体験から、強烈な悪への憎悪を持ち、恐怖による悪の抑制と制裁を行う人物であるとされました。
そのような動機を持つ彼が、スーパーマンをも恐怖による抑制に置こうとするのはある意味当然とも言えます。どんな善良な人も悪に堕ちる事を知っているからなおさらです。
そして今作の3人目の主人公とも言えるレックス・ルーサーですが、彼が何をしたかったのかを理解するのは少し困難です。スーパーマンを殺したかったのは本当のようですが、それは何の目的だったのか?スーパーパワーを持つ人間のデータを集めていたのはなぜか?光と闇の軍勢の戦い、という彼の誇大妄想を実現するはじまりの「鐘を鳴らす」事が目的だったのかもしれないし、もっと遠大な目的があるのかもしれない。これは次作以降を見ないといけない部分ですね。
今回の映画の結果、3人の主人公がどうなったかというと
スーパーマンは、自分の世界から連れて来てしまった脅威に、自分の命でケジメをつけました。贖罪を果たしたとも言えます。
ルーサーはスーパーマンを殺したことで「鐘を鳴らす」事に成功しました。
バットマンはその心に正義の光を灯しました。
誰も負けてない!笑
このバットマンの心変わりがわからないという方がおられましたが、自分はこう考えています。バットマンは両親の死の悲しみを、悪に対する徹底的な攻撃という行動に繋げていました。完全なクライムファイターです。しかし今回、失った母と同じ名前の、クラークの母を命の危機から救う機会に恵まれました。あの時救えなかった母を、本当は救いたかったのだというバットマンの本心。バットマンが身を挺して炎からクラーク母を守ったカットには、そういう意図がこめられていたと思います。悪に対する憎悪のみが戦いじゃない、自分には人を救う戦いもする理由がある、それがバットマンに灯った正義の光ではないでしょうか。
前作「マン・オブ・スティール」でスーパーマンの心に正義の光が灯される話が描かれたように、今作はバットマンに正義の光が灯される過程が描かれた。。これが今作を一番要約したまとめだと思います。
ただ、これでいくと、ちょっとした不安が持ち上がります。
これ、次作でもヒーローたちがちょっと正義に目覚めるだけの話になるんじゃないか…? 本当にジャスティスリーグがヒーローとして活躍するのは、次次作の終盤とかになってしまうんじゃないのか!? これは…なかなかしんどいですよ。
長くなってきたのであとは簡単に。
その存在や活躍が世界を変えてしまうスーパーマン、とことん不気味で悪に対して容赦のないバットマン、生命力に溢れたワンダーウーマン、それぞれの描写はとても良かったです。バットマンは今までの映画で一番好きと言ってもいいです。アルフレッドとの連携もかっこいい。
フラッシュやアクアマンのティザーも嬉しい…と言いたいけど、あれだけじゃ本当に付け足しだよね。どんなに無理があっても、やっぱり今回の映画で全員の顔合わせまでは行って欲しかったなぁ。少なくとも、最後にジャスティスリーグの予告を付けといてほしかったです。そうじゃないとこの映画の役目が普通の人にはわからないよ。
あと、ゾッド将軍の死体が毎回丸裸(股間は大体ルーサーが隠す)で出てきて、だんだん可哀想になってきます。笑
「GODZILLA 2014」 これだけは言っておきたい。
ハリウッド版2014年「GODZILLA」、地上波初放映が迫ってきました。
テレビ放映で初めてご覧になる方に、より楽しむ助けになればと思い、多少ネタバレを含みますが、見る上でガイドラインになる、とある事を書いておきたいと思います。
*
公開後、「これは良いじゃん!」「いやぁ、こんなもんじゃ」と賛否両論の本作ですが、初めに言っておくと私はかなりの「いやぁ良かったよ!」派です。
どの感想やツッコミも納得いくものが多いのですが、この「GODZILLA 2014」がとても映画的であるがゆえに、あまり語られずに置かれているある重要な要素について、ここに記しておきたいと思います。映画的とは、重要な事をセリフで説明したりしない、という事です。
*
さてこの「GODZILLA」、普通に見ていると、ある同じ事が繰り返し繰り返し描かれている事に気づいた方も多いと思います。
それは、大人(親)が子供を助ける、というシーンです。
冒頭の原発事故のシーンでは、主人公の母親が命を賭して街と息子を救います。
ハワイのシーンでは、主人公フォードが偶然居合わせた子供を助けます。
そしてフォード自身も一人息子の父親であり、息子の元へ辿り着く為に奮闘します。
この繰り返しの描写が、一体何を意味しているのか。
それは、この映画のクライマックス、敵怪獣の巣でフォードが行った、ある行為 によって明らかになります。(何をしたかは本編で確かめてね)
*
登場人物が子供を助けるシーンの積み重ねと、フォードが最後に行ったある行動によって、この映画が映画全体として訴えかけてくる何か重いもの、それは何なのか。
私の考えはこうです。
「種を越えた闘争とは、相手の子供を殺す戦いである。
という、圧倒的に恐ろしく残酷な真理」
そう考えれば、今回の敵怪獣が雌雄繁殖を特徴としているのは必然と言えます。
冒頭で発見された小さめのゴジラの骨。それももしかして・・・?
でもそう考えると、ゴジラが敵怪獣を執拗に追う理由もまた違って見えてくるのです。
(この辺の予想はあまり詳しく調べてないので間違いかもね)
*
フォードは自ら行った行為によって、この残酷な闘争の当事者、「怪獣」の一人となり、だからこそ皮肉にもゴジラと敵怪獣を倒すために用意された核爆弾によって「天に召される」事になったのだと思えば、あのラスト近くの不思議な表現も理解できます。
そして、「怪獣」はフォードだけではありません。巣のシーンでフォードに何の疑問も抱かず同調した観客私達も、「怪獣」だと言えるんじゃないでしょうか。
この映画は、そういう重い真理を観客に突き付けているのだと思うのです。
*
それにしてもこの映画の高級な所は、大事な所でセリフが抑えてある所です。
件の巣のシーンで、フォードはある行為を、本当に一言も発さずやり遂げます。
許しを乞うわけでもなく、怒りを露わにするわけでもない。
ただ、何をするべきか悟ったように、やるんです。スゴイ。しびれる。
あと、芹沢の原爆について語るシーンも良かった。広島長崎について語っても、米軍司令官に向かって「だからどうしろ」とは言わない。抑えが効いてますね。
*
コレ以降は余談です。
映画未見の方は読まなくて大丈夫です。
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あともう一つ、全く関係無いけど良かった所!
現実の災害になぞらえた天災としての怪獣表現、息を呑みました。
ビルの倒壊、ハリケーン跡のような破壊痕。
特に「海を連れて上陸してくるゴジラ」の表現は311後の日本人には悲鳴ものです。
こういう現実の災害を参考にすることは、酷く不謹慎だと言われるかもしれない。
ですが今のyoutube時代、観客は本物の災害映像に慣れて、リアルな映像のハードルはどんどん上がっていっています。否応なしに。
911後やスマトラ地震、311の後のVFXが、変わらずいられるわけはないんです。
そこに真正面から挑んでくれた事に称賛を送ります。
邦画では、「のぼうの城」の水攻めが津波に似ててお蔵入り、のような不幸な事態があったみたいで難しいですね。だけどいつの日かは頑張ってほしい。いつまでもミニチュアに爆薬仕込んで喜んでいるわけにはいかないはずです。
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邦画の話が出たのでもう一つ。
この「GODZILLA」が「金子ガメラ1」そのものだっていう指摘がよくありますね。
たしかに、大まかな筋は似てる所が多いと思います。
ただ、骨子の部分での違いは大きいです。
ギャオスの卵で増える要素は、怪獣の生物的側面を描きリアリティを高める仕掛けにすぎませんでした。そして、ガメラとギャオスは生物というよりは、古代人の残した超兵器というのが正体です。言ってみれば人間の正の部分がガメラで、負の部分がギャオスである、という人間界の中で閉じた話がガメラ1の大まかな骨子です。
「GODZILLA」ではゴジラ、敵怪獣、人間は、フラットにただ地球に生きている別種族として描かれ、人間がゴジラや敵怪獣に無視されがちなのは、単に彼らの生存をおびやかすものとして認識されていないからのようです。そこから見えてくるのは、簡単に言ってしまえば種を越えた無慈悲な生存競争です。
(一応書いておくと自分は金子ガメラも大好きです)
*
そういえば、ゴジラの位置づけについては別の可能性も示されてました。
芹沢の「自然界の調和を図るためにやってきた」というやつです。
でも・・・このセリフを聞いた時とても居心地の悪い思いでした。日本人の、「どこかの誰か、偉い人が調和を図ってくれる」っていう願望を見透かされてるみたいで。
動物番組とかで「自然は自ら調和を図っている」ていうお決まりのセリフ、昔から信じてないんですよね。全く。
語りたいとこだけ語るブログなので、
書くことなくなったらおしまい。
またね。